避難所でのくらし

(場所の確保)

夫)(避難所へ)行ったからいったって,なんも無いわけでしょ.広い所ですから,寒いわけですね.で,すぐ,体育のマットがありましたのでマットを2枚ね,ひかしてもらって.畳2枚ぐらいの広さになりましたよ.

次女)まだあまり誰も来てなかったから.

妻)あの時はまだ,ガラガラで場所は埋まってませんけど,マットは2枚しかなかったです.

夫)埋まるたってマット30枚位ですよ.だからしれてるわけですよ.だけどあれは2枚しか無かった.あとの人はマットなんか無いしね.何をしいてたかしらないけど,皆さん加工して(工夫)するからね.私熱あったから寝てたけど,家内と子供たちはまた,1枚でも何でも着るもの(家の跡から)取ってこないけませんから.

妻)それからが大変ですね.

夫)でも晩はいっぱいになりましたよ.入れなかった人もいたしね.

妻)もう,晩は入れない.ぎっしり.

*****

(当日の食事)

−ところで食べ物は?

次女)布団とか出して落ち着いてから,食べ物と飲み物が無いってことに気がついて.近くにローソンがあったんで,姉とすぐ買いにいってくるって言って,ちょっとだけお金持って行ったんですけどね.そしたらもう,陳列棚に何にもなくって,人がもう20人ぐらいズラーッって.その時には持ち出す人は誰もいなくて,ちゃんとレジに並んで待ってるんですよ,車もきちんと並んで.電気がきてないんでレジ動かないんですよ.でも店員さんが電卓で「大体のお金だけいただきます」ってちゃんと言って.「待っといて下さい」というふうに言って,「じゃこれいいです」って,パンを皆なに配って.朝早かったから,外にパンとか運んでる途中だったみたいで,そのカゴがあるんですけど,パンがいっぱいのってる.そこからパンを持ってレジへ並んでる人とかいて,持ち出す人なんか誰もいなくて.

−商品とかはちらばって,床がメチャクチャなってたんですね

次女)はい,なってますからよけて歩いたり.そこで一人座って,漫画をガーッと読んでる男の人がいて,この人おかしくなったんちゃうかなあと,そういう時でもこういう人はいるんだなあと思った.とりあえずお菓子とかでもいいから買ってね.

−結局,最初にその日食べたのは,いつごろ

夫)夕方食べたんですよ.避難所行ってからそのお菓子とかね.

−それまでは,食べるなんていう頭はないと.ようやく避難所行って,ああ,そうだなんか食べよう,とりあえずなんか食べなきゃという感じで.どうですか,そういう時,なんか食べて,お腹空いてておいしいか,それともなんにも食べた気がしなかった,味なんかわかんなかったとか.

次女)とにかく口に入れただけって感じで.

妻)食べることにはあんまり意識がないんですね.

次女)配給みたいなのが,体育館に夜にきたんですけど.パンだけなんですけど.でも数が少ないんで,“お子さんとかお年寄りのいる方に出来るだけ譲って下さい”っていう風に言われたんで,結局それは食べてないね.

夫)取りに行かんかった.

妻)そこもなんか,順序正しいっていうかね,我先にじゃなくて,(体の)悪い人に先に与えて,我慢する人は我慢してました.

(当日の夜の状況)

−当日の夜の時点で,体育館はぎゅうぎゅうでしたか

夫)もう,いっぱいだった.布団,乗らないといけないぐらいでした.真ん中に道は作ってましたけどね.修学旅行でゴッタ寝してる感じ.

妻)ぎゅうぎゅうでした.もうぎゅうぎゅう.それにあっちこっち犬も連れてきてましたから.

夫)犬,みんな,おとなしかったなあ.

妻)怖さもあるし,“ああいう時は犬もわかるのかなあ”思いましたね.やっぱり飼い主が必死やというのがね.喧嘩もしません.

次女)ちっちゃい子供より,犬のほうがおとなしいぐらい.

妻)犬のほうが,おとなしかったですね.

−ちっちゃい子供は,遊んじゃってさわいでる感じ?

次女)どこも何日か経ったら,やっぱり落ち着いて.

夫)当日は静かでしたよ.

妻)余震がずっときてましたから,それで皆さん,くるたびにワッと,こう緊張して.

夫)もう聞こえるんですよ,ゴーッてしてからガサガサとゆれるのが.ゴーッとしたら,皆さん緊張するわけですよ.

妻)体育館の上のライトも,こうゆれるんですよね.それで,またわぁっと怖いんです.でも体育館があれで倒れてませんでしたから,ここは大丈夫だろうと.

避難所における弱者

(老人)

夫)毛布がね,晩に40枚って言ってましたよ.多分200人位いたと思いますけどね.それでもお年寄り先にもらうの皆な待ってね.うちは家内が布団とかでも取ってきましたから,元々行く気はなかったんだけど,皆さんやっぱり,無い人でも優先にね,お年寄りとか先にしてましたよ.ぼくやっぱり,ああいうのは日本人の,海外へも行ってますけど,ああいうのがあったら,全然ダンチですね.日本人のおくゆかしさっていうか,礼儀正しさっていうかね.

それから,僕は,ある面で今後いろいろ考えた方がいいと思うのは,お年寄りはね,電気を夜つけて寝る人と消して寝る人といるということ.つけて寝るひとは,自分が夜トイレ行くとかいろいろありますから,なんかひっかかってね.老人ってのはね,転んだらおしまいだってのはもう,よく知ってるわけですよ.年寄りで転んだら,どっか患ってなかなか直らないんですよ.それともう一つ,明るいと寝れないというご老人がいるわけですよ.体育館だから電球バァーとあるでしょ,電気消してくれって言う老人がいるわけですよ.消すと,いや,恐いからつけてくれって言うんですよね.これは先生たち,ものすごく困ったと思いますよ.でどうしたかいうと,わっと,1列,2列ずーっとあるやつ,一方だけ消したんですよ.そしたら皆さんも辛抱されてましたけども,ああいう時は,横なら横,縦なら縦になんかちょっとでも幕かなんかね,たらして,一方は明るくつけてあげる,一方は薄暗いっていうかね,でもいいっていう風にしたほうがいいなって感じましたね.

−最初,すぐにはそういうことできないと思いますので,アイマスクかなんかでね,とりあえず代用して.暗くなくては駄目な人には,それをかけてもらって寝てもらうとか,音が聞こえて寝れない人には耳せんをあげるとか,そういうのは多少,有効でしょうね.

夫)そうかもしれませんよ,それは.やっぱり必要かもしれませんね,そういう人がいましたよ.僕は,その時にね,そういう工夫が必要だなあと.若い人はね,どっちかせいって言えるけどね,お年寄りはね.トイレを起きるから明るくないと人にひっかかるとか言われちゃうとね,言えなくなっちゃうんですよね.ですから,やっぱりそういうお年寄りのいろんな生き方っていうのがありますからね.

(乳幼児)

妻)あと,やっぱり赤ちゃんのいらっしゃる方は大変だったと思いますよ.おしめは,買いに走っても,もう紙おむつもありませんし,お水が出てませんから洗うということもできませんし.ミルクも即,できるってわけにはいかないですしね.私は若いお母さん大変だと思いましたね.

(病人)

妻)主人も熱が出てましたからね,お薬もないし,冷やすのもお水も氷もないわけですよね.40度近くずっと続いてましたから,もう肺炎になったら困ると思いましてね.大阪にある会社からは“別な所に移れ.そっちの方が整っているから”っていう指示がきたんですけどね.ですけど動かすに動かせないですし,足も無いし,歩いていくわけにもいかなくて,電車も通ってませんし.ということで,そこにいるのが一番いいと思いましてね.そうしましたら冷蔵庫が1つ,体育館にはまだ電気があったんです.でまあ,氷使わせていただいたりとか,随分お世話になりましたね.

(避難所の運営)

(コミュニティの構成)

−深津小へ避難されてこられてるのは高松町と他には?

妻)高松町か,阪急のあの一円じゃないかしらね.

次女)町別に分けた名簿って作ってたやんか.3日めぐらいにはだいぶ出来てきて,名簿が,貼りだしてありました.誰がいますっていうように.あったよね.

妻)ありました.それで出ていくときには,それを何処何処行きました,ということで,消して行き先をその横とかにメモして行きました.

次女)すごいいっぱい町があった.

夫)やっぱりだから,相当の所からきてらっしゃる.

妻)空いてるとこ,空いてるとこ探してこられたのかな.

先生とPTAとの連係プレー

夫)そこの学校の先生たちは苦労したと思いますよ.

妻)そう,先生方には本当にお世話になりました.もう本当によくしていただいて.やっぱり,学校の先生だからあそこまで出来たんじゃないかと思います.避難してきた親御さんがいらっしゃいますでしょ.それで先生方が何かチームを作るので,PTAの方,お弁当配りとか,お茶配りにしても,人集めして下さいっておっしゃられましたからね.で,お母さん方が人員の点呼とか,お弁当配りに毎回来ますからね,それを割り振りして,率先して出てらしてとか.あと,いろんな取り決めを先生方と相談して,生活がやりやすいように,だんだん改善されていきましたからね.まずお父さんやお母さん方が動かれたんです.

−そういうつながりができる点で,先生がリーダーシップをとられることが,逆に有効に働くということですかね.見知らない市の職員がきてもうまくいなかいだろうと.連携プレーがとれる点で,先生方にやっていただく方が,結構メリットはあった

妻)メリットはあったんじゃないかと思います.

次女)外から来たら中も知らないもんね.先生じゃないと電気一つ,スイッチ一つもわからないし.

妻)先生だと,すみませんけど,そこそうさしていただけますかということで,私たちも電気1つ消してみたり2つ消してみたりして,できましたけどね.外からきてたら,皆なもたもたしちゃって駄目だったと思います.

−先生にとっては非常に大変な仕事ではあるけれども,そういう時には頼りになる存在である

妻)先生,不眠無休で本当によくしてくださいました.メインで教頭先生がずっといらっしゃったんだっけ.ほんと感謝してます.お礼にも伺ってないんだけど.

(トイレの水)

夫)それから,も一つはね,避難生活では水ですよ,水.最初はね,先生たち(深津小)も気がつかなくって.水が出ないってことは,すぐトイレが困るってことになるわけですよ.次の日にね,頭のいい先生がおったんだと思いますわ.あそこは上の方にプールがあったんですよ.寒いんだけど冬でも水張ってんでしょ.その水を使えばいいって,そっからね,ホースつっこんでね,サイフォン式に使って,下へ持ってきて,水が使えます.それでバケツを皆な準備して,自分がトイレ行く時はそのバケツに水を汲んでいってね,それで処理するという方式を次の日からとったんですよね.だけど最初の日はね,そういうことなかなか気つかんかった.

次女)(最初の日は)「若い人たち出て下さい」って言われてバケツをもって,プールまでいって汲んで.結構,4往復ぐらいか,行きましたね.各階のトイレにバケツを持って行って下さいってことだったんで,1階から4階のプールまでまた上って下りて.

妻)3階に私たちはいたんですね.3階の体育館やね.で,職員室が2階でした.4階がプールで.

−4階にプールがある建物で.じゃ,ちょうど真上にプールがあるからそっから水を

夫)サイフォンでしてたわけですよ.

妻)ですからあれになってからは,まあきれいになりました.

夫)楽やったよね.トイレが混んでるというのはそんなにはなかったですね.

妻)多少,汚れはありましたけど.2・3日目ぐらいからはきれいにね,皆なで今度きれいにしましょということで.非常にスムースでしたね.

−そのバケツって,若い人が運ぶのも,わりと皆さん,じゃ行こうかって感じで,ブーブー言ってるのもあんまりいなかった?

妻)率先してでていかれました.

次女)いないです.小学生とかでもやってる子もいた.

(避難所への援助)

−食料はちゃんと毎度,きてたんですか?

妻)きましたね,あそこは1番.北口までは電車が来てましたしね.

夫)それから個人がね.北口までは電車が通ったんでね.皆さん,北口だもんだからね,いっぱいいろんな物を持ってきてくれる.

妻)それとサティ,イズミヤのサティ.サティが一番に差し入れを持ってきてくださいましたね.

次女)パン屋さんやったよ.

妻)パン屋さんだったかな.個人のお店とか,企業がお弁当や差し入れをね,持ってきてくださって.ですから食べる物は豊富にありました.最初だけ無かっただけでね.

−そういうかたちで,地元の企業関係も率先して,そういうふうに手を差し延べてくれた

妻)そうです,多分できる範囲内で.北口は大阪からすぐ輸送が可能だったからと思うんですけど.東灘とか神戸とか,だんだん向こうへ行くほどね.

夫)災害もきついし.きついってことは,交通網が遮断されるから行かないってことになるわけですよ.

*****

(4日間の避難所生活をとおして)

−避難所の生活でなにか気がついた点とか,不満点というのは

妻)4日間しかいなかったので,いいとこしか見えなかったのかもしれませんけども.その後の方は,疲れが,もう,くっついて寝てますでしょ.人が多くて,体,のばせないんですよ.それほど詰まりましたね.皆な,どうぞ,どうぞっていうことで最初は譲り合ってましたけど,それが何日も積もると,座ったまま寝なきゃいけない状態になってましたから,疲れてしまって.お隣の方なんかも,何とかしてほしいということで.

夫)10日過ぎたり,2週間すぎるとやっぱり,私生活のこともありますからね.あれ見てたら,結局,行った人たちは隣との間に段ボールで仕切りしたりなるでしょ.私たち短かったからね,全くそういうこともないしね.その人たちがしたことに対しては,何にもあれやないですけどね.非常に,あそこの深津小学校というのは,水でも思い切って,プールを使って,サイフォン方式で使おうとか,アイデアも良かったし,皆な,集まってる人が,最初,毛布も40枚しかないのに,それ秩序よく皆さんが分けて,最初のパンだけでもチョビッとしかなかっても,皆さんそれに対してブツブツ言う人もいなかったし.後は,2日後ぐらいからは食べ物もね,相当おにぎりがきたりいろいろしましたですよね.

妻)私なんか逆に言いましたら,普通の今のような,この満ち足りた生活では味わえないような連帯感とか,充実感というか,人の情けだとか知ることができたというので,却って力が湧くっていうかね.私たちは,短期間でしたからね.それが長期になると大変だったと思いますけど.

夫)私がずっと熱でて寝てたもんですからね,お隣の人も自分がある病気でいろんな薬を持ってたんだけど.

妻)腎臓移植をなさった方が隣にいらしたんです.風邪をひくと困るのでということで,たくさんいろんなお薬を病院からもらってらしたんです.それを主人にどんどん,どんどん下さったんです.それでね,後で聞いて腎臓移植してるっていうことでびっくりしました.黙ってらしたから,わからなかった.貴重なお薬をね,主人にどんどん下さったので,主人はそれで肺炎にもならなくて本当に助かったと思います.

体育館だから,別に暖房もなかった?

妻)暖房はなかったですね.やっぱり,夜になると寒かったと思いますけど,私たちは皆,周辺も皆,団子になってましたから.着るもの着て,お布団かぶってましたから.いつでも逃げられる状態で,逃げられるというかそのままの状態.

妻)そういういろんなね,有り難いことがたくさん重なりました.

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K・H氏(60)及び夫人(48),次女(23)
・住居形態(被害の程度):
   社宅木造2階・築70年(全壊)
・住居以外の被災状況 :軽微

1)避難所の運営

夫)ほんなら、あくる日、役員が皆きはって、「Hはん、男一人やからここ全部仕切ってよ、任せとくで」いうて(そん時ちょうど役員してた)。「えー」いうたけど、「ええやんもう、自分一人しか男おれへんから。女の人はあれやから」って。ほんで、朝起きたら、便所、山。「あ、こりゃえらいこっちゃ。農業用水くみに行くから、家帰ってポリカン取ってくるわ」ゆうて、単車でポリカン5つ取ってきて。5つ水入れたら積まれへんから、まず3つとってきて、次2つ取ってきて。ほいで、1階に2つ、2階に2つ、3階に1つ置いて。「女の人は便所の当番、各階段できめてやって。男はポリカン取ってきて台車に積んで、水くみするから」ゆうて。それで決めて、やってもうてん。

夫)水はあそこの農業用水から(もらってきました)。あっこはもう、お百姓さんがわざわざパイプを広げて蛇口つけてくれて、ほんまありがたい思うわ。最初はね、ひとつしか無かったからいっぱいやったけど、途中で5つか6つくらいに広げて、だしっぱなしで。もう要するにボランティアでつけてくれやって、あれで助かった。それで、友達が車もってきて、晩なったら水汲みにいってきたるわゆうて、行ってきてくれたりね。Tさんゆうひとがようしてくれた。

妻)まあ、本来の避難所とはちゃうからね。だから、きれいにしてよ、会館に迷惑かけたらあかんゆう感じでね。特別にして頂いたからゆう気持ちだけ忘れんようにしとこゆう感じで。

夫)そいでトイレでもきれいにしてくれゆうて

妻)当番も女のひとは、3人ずつかな、2人ずつかな、毎日掃除当番して。でもまとまりついてましたよ。

夫)あと、ガスあるけどもなるべく使わん。年寄りなんか、火が恐いからなるべく付けんといてくれゆうたけどね。ぼくらせえへんだけどね、やっぱ年寄りはやってた。

夫)ほいで避難所おっても、高松町の役員は高松町ニュースゆうて、会長、副会長、役員と4人が毎日来るの。高松町の広告ゆうて。ようやる自治会やなゆうてね。Sさんやら、毎日やもんね。晩8時、SさんにWさん、Wさんは役員ちゃうんやけど、「なんかいるもんあるか」とかゆうて毎日来てくれる。ほいで、弁当、トイレットペーパーとか、避難所にないもんは、自治会の会員とか、駅前商店会の組合とかが、お見舞いとかくれてんな。17・8万かな。そっからトイレットペーパーとかを買うてきてくれいわれて、ぼく預かってね。だいぶしてからやけど、みなぜいたく言い出して、ビタミンが不足ゆうて、みかんこうたりね。

妻)ボランティアの人たちもきてくれたけど、お父さん断わったんですよ。ほかでね、学校なんかでまだ困ってる人いるから、ここは十分ですからゆうてね。(自治)会がちゃんとしてるからT小学校とかK小学校とか行ったって下さいゆうてね。ボランティアでようきてくれたよ。

妻)そやから私らは、炊出しゆうのも、味わったこともないしね。弁当来るでしょ、それを配るだけ。だから私なんかは、朝早く起きてご飯の支度をみんなに配ってね、ほんで、また夜になったら行くような感じでしてたんですけどね。

夫)最初は、おにぎり一個にねウィンナー。だんだんよくなてきて。ありがたい、人間ぜいたくできたらぜいたく言うけど、最初の時はねえ、食べもんあったらありがたい思たけどね。

妻)よそは、炊出しでおうどんとか食べたとか言うでしょ。そういうのはいっさいしてなかったんです。事業会館に迷惑かけたらあかんゆう感じでね。そういう炊出しだけはしないようにして、うん。

妻)ふつう囲いとかするでしょ。私らほんま、全然しない。大家族いうかんじで、みんな頭ならべて寝るんですよ。だからお勤めしてる人もいるでしょ、夜でも帰ってきたら「おかえり」ゆうて、おふとん広げて。あ、ご飯とったげたよゆうてね。だからね、だれかお寿司でももらってきたとか、鍋とか差入れあったらね、みんなでわけて食べる。ひとりだけじゃないんです。だからわたし、なんでよそはバリケードみたいな、あんなんはるんかな思ってね。

夫)みんな近所やからできたけどな。あれが、いろんな人がはいってたら、そうはいかんかった。結局、避難所はできるだけ町内の方が、顔見知りやし。やっぱし、道で会うて、「ああ、あの人知ってるわ」ゆうて。知ってる思う安心感があるわね。

妻)わたしの隣にね、新婚さんみたいな人がいたんですよ。その人はちょうどね、奥さんの実家のおふろ入るからゆうて、そこが空いてたのよ。ほんだら、いっぺん、夜中12時ごろ目が覚めたらね、違うひとが寝てるのよ。「お父さん、違うひとが寝てるー」ゆうて、会館にいた守衛さんもびっくりしてね。神戸のほうから来た男の人だったんですけどね、夜の11時ごろ来て、電車がないから泊めてくれゆうて。ここは泊められないけど、1階のロビーのとこやったら寝てもいいからゆうて毛布与えたんですって。そんで朝起きたら守衛さんがその人がいないことに気がついて、「どこいったんかな、帰ったんかな」ゆうてたら出てきて、みんなが警察呼べゆうて。そんで、一応、守衛さんがその人の住所聞いて、ほんなら神戸の人で、電話番号いうたからそこの家電話したんですって。ほんならお母さんがでて、「勘当した息子ですから警察に突き出すなりなんなりして下さい」言うてた。まあ、朝、みんなに謝って帰ってもらったんですけどね。びっくりしましたよ、ほんま。顔見知りばっかりやのにね、目が覚めたらほかの人がいるんですもん。

夫)高松町は、ほとんど顔見知りの人ばっかりやからよかったんちゃうかなあ思うて。あれが、寄せ集めたような体育館なんかだったら、わからへん。避難所も仮設も、各町内にあるのが一番やと思うわ。

夫)店のほうは、醤油とか油とかの瓶もんは、やっぱだいぶん割れたけどね。お米も、まあ、ほったやつもあるけれど、紙袋やぶけたりしただけで、ほとんど被害無かったみたいやね。

妻)でも、お父さん、仕事ぜんぜんする気無くなっとってね。だた、避難所と、家、1回は行くけど、片付ける気にもなれないしねえ。

妻)けど、夜、避難場所へ帰ったら、みんな仲間ゆうことですっごく落ち着くんですよ。なんか、不思議とほっとしましたね。あのへんお店の方は大丈夫でしょ、だからみんな平静にしてるからね。

(協力してくれる人・くれない人)

夫)で、協力的な人もおるけれども、中には寝ころんで「私いりませーん」ゆうといてね。で、缶詰でも作るでしょ、そしたら「私いります」ゆうてとってまうねんもん。(食料は)ずっと来るとは限らへんからゆうて備蓄しょ。倉庫の鍵は会館の人がもって、開けるときはそれ借りてきて開けてね。で、今日はこれとこれをつけようゆうて、階毎に班長を決めて。水とウーロン茶がいる人は、ここは何人てだいたい班で決めて、無いときはゆうてね。ただし家もって帰ったらあかんでゆうてね。(一度)もって帰ったらもう、「水あるやんくれ」ゆわれたら、次またあるでしょ。それで水が無くなったらこまるから、途中まで持ち出し禁止。ちょっとたまってきたからゆうて、水とウーロン茶、1リットル、いや2リットルかな、これは持ってかえってもええからゆうて、そないして渡したりね。そんで、僕おれへん時、

妻)箱、みんなでわけたらええわ思って、私が出してきたんですよ。ほんで箱あけたら厚かましい人全部とっていくんですよね。ほんでね、おばあちゃん連中なんかでも「孫にやー」ゆうて取って行くしね、結局わたしら役員したひとなーんもとられなんだですわ。

夫)せやからそんなことしたらあかんゆうてね。ひとりなんぼゆうて決めて順番ずっととってもらったらよかったんやゆうてね。

夫)協力してくれない人の特徴っていうか、まあ、体弱いからとかいうて、年いったひとがねえ。そでも、年いったゆうても、お便所当番なんかちゃーんときれいにしてるひともあるしね。役員じゃないのに、Kさんゆうてタクシー運転してはる人ね、もうずっと朝起きて弁当から全部てつどうてくれたもん。

妻)家なんかでは絶対しそうにないおじいちゃんでも朝もう6時なったらおきて掃除するでしょ。自分も何かするゆうて起きてきてくれたおじいちゃんもいるしね。

妻)でもああゆうとこで役員さんゆうのは嫌われますよね。あの時世話なった世話なったゆうていただいてね、友達なったりね。

夫)(米を)買うてくれんなった人もおります。こういう気性やから“ババー”っというから、好かれる人には好かれるのんやけど、嫌われる人にはもうねえ。中には避難所におった人で、今まで取ってくれてなかった人も取ってくれるようになったこともあったけどね。

妻)いろんな人いますね。ま、高松町だから、自治会の人が寄るし、役員なった人が必ず来てくれて、「まあHさんにまかしてるから、Hさんにちゃんというようにしてくれ」とか、「ちゃんと協力したってくれ」とか、そういうのは役員さんが常に話もしてくれるしね。

夫)そやから当番と水汲みは僕が決めてやったけどね。そのあとは、役員さんが、「僕ら、ああいうたら、どないしたええや」とか聞いて、「ほな、こないしたらええねん」ゆうてくれて、でそのようにしたり。避難所出てここ(仮設)入る時、会長のSさんから「ようしてくれた。お祝いや」ゆうて、時計もろた。よう、ようみんなしてもうたわ。この震災でもお客さんが、ストーブあげようかゆうてさらのストーブ2台もろたりね、ようもらったよ。そいで、僕がいらなんだら、避難所におる人にいらんかゆうて、いるゆうたらその人にあげたりね。そいで、韓国の人やけど、家つぶれてなんにもないゆうから、まっさらの大きいの(ストーブ)1台あるからゆうて、もうてきて、その人にあげたりね、喜んでた。まあいろいろありましたわあ。

妻)けっこうみんなに可愛がってもらったね。

夫)避難所には一番最高で157名おったんやね。そのうち、あれは、Sさんか、「駅の構内のコンクリはかわいそうやから1階をあけよう」言い出してん、途中で市場の被災者(北口町)を入れたのね。ちょっと減ったし、この際みな2階へ上げて、1階空けて、市場の人40人ほどきたんかな。でまあ、ぼちぼち減ってきてね。

妻)けど、協力してないってひとは、ほんの数人やね。ほとんどみんな協力してくれましたよ。で、あのみんなあこ会館借りてるからね、「ここは避難場所やないから、いつまでも会館に迷惑かけたらあかん」ゆうてね。

夫)あの会長やらが、「いつまでも借りとかれへんから、早くみんな空けようー」ゆうてね。そら、よそよりずっと早かったわねえ。

夫)で、わたしらが「避難所出る」ゆうたら、Kさんも出てもうた。Tさんも「わしもいやや」ゆうて、嫁さんも「もう、わたくしもイヤ」ゆうて、結局家捜してでてった。でもその時は、避難場所1階に移ったからね、避難者は少なかったよ。わたしら仮設は、第一次で当たったからね。で、2月の26日ちごたかな、鍵もろて引越しして。でも「避難所の弁当配らなあかんしなあ。まあ、2月いっぱいまでしよか」ゆうて、弁当配りしたんやなあ。ほいで、Tさんゆうひとにバトンタッチして、役員ちゃうけども面倒みたってくれやゆうてね。

(避難所周辺の交通事情)

夫)昼間は車が事業会館の四つ角をこっち入られへんのに、駅のほうから来るやろ。ほんなら、そこ行っても入られへんから向こうまわれゆうて、あこの四つ角で交通整理してたわ。そいで丁度そのとき、パトカー先導に自衛隊がきたわけよ。けど抜けられへんねん。ほいで、球場のKさんゆうて、偉いさんに交渉に行こうゆうて、パトカー乗してもろて。で、「Kさーん、ここ野球場のまえ柵あけったってよ。せやんと通る道があらへんやーん」ゆうて。ほんなら、なんや言いもって開けてもろたら、自衛隊もそっから神戸のほうへ通っていきましたわ。あの阪急ので、171(国道)が落ちて通られへん。せやから、抜け道がなかったから、こっち来たわけよね。そっから野球場にたのんで、「自衛隊通ったからもっぺん通したってや」ゆうたら、「ハイ」ゆうて抜けさしてもろたんや。せや、後で「Kさんすんませんでしたなあ」ゆうてね、で、「イヤイヤ」ゆうてね。でも、その方も結局病気で亡くなりはったけどね。

(避難生活)

妻)わたしら避難場所でね、お水が出なかってしょう。高松町も水は遅かったんですよ。せやからその農業用水で洗濯してたもんね。それで、たしか10日くらいして、大屋町に先お水がでてね、「顔を洗わしたげるからおいで」ゆうてくれたんですよ。「ほんまに洗ってもええの」てゆうたもんね。みんな朝起きたら顔拭くしかできない、ゆうイメージがあるでしょ。だから、顔洗ってもいいゆうた時はほんま嬉しかったですね。

 大阪の弟がねお風呂入りに1回おいでゆうてくれて。でもだいぶと後やったよね、解体とかが終わった後やったと思うわ。

夫)ほいで、むこう、大阪ゆうたらどうもないやん。こっちはもう悲惨やん。もう涙でてきた。

妻)梅田まではまだいいんですよ。大阪まではね、リュック背負って、ほんまの避難スタイルでも、恥ずかしくもなんもなかったんです。梅田から先行くでしょ。それから過ぎたところはもうほんまにみんながねえ。

夫)つなぎに、ジャンバーかけて、それで電車乗ったもん。で、そのつなぎも向こうの、コインランドリーで洗濯してきてくれゆうて。ほいで洗濯してもろて、一泊風呂入ってビール飲んでうまかったわあ。ほいで帰ってきましたわ。

妻)あれ何日くらいしてからかな、息子から電話かかってきて、(息子の)会社が「有馬温泉入って下さい」ゆうて、会社の上司と一緒にきてくれて。その時だけはほんまにありがたかったですね。

夫)それで、親子、娘もきたから4人で有馬へ行きました。有馬の晩は料理来たけど、そらおいしいけど、天ぷらとかあんなん冷たいでしょ。だからそうおいしい思わんかったけど、朝の飯がうまかった。・・・味噌汁・・・。もう、朝なんか飯食ったこと無いのに、2膳もたべた。「おいしかったあ」ゆうて。朝はなあ、あれはもう忘れられへんわ。2泊さしたるゆうたけど、もったいないから1泊で結構ですゆうて、1泊だけさしてもろて帰ってきたね。

−震災で、体や心がずいぶん痛んだということがあったんでしょうね。

妻)私なんかでも震災後、肺や声帯に水がたまって耳鼻科へ行ってたんですけどね。今の声よりか出なくなるか、五分五分ゆわれてね。ただその原因いうのが、自分ではわかってないんですけど、発声のし方が悪かったのでのどやられたのと、ほこりを吸うたので、水がたまってしまったんですね。

(互助、ボランティア・・)

妻)私の弟がね、40そこそこですけど、東京で美容師やってるんですよ。で、店の従業員若いもんばっかり7人とボランティアグループつくってね、東京から8人乗りのライトバンで、ボランティアでカットにきてくれたんですよ。

夫)「事故でも起こしたらもうかなんから危ないから来な」ゆうてんけどね。「仕事終わってすぐ来る」ゆうから、そんなん寝られへんやろゆうねん。

妻)夜走らせて、朝5時ごろ着いたんかな。で、ちょっと仮眠取ってもらって、それからカットしてもらった。水でえへんのであらわれへんから、カットだけ。あの避難場所に女の人60人くらいやって。泣いて喜んだ人おったね。

夫)そや手紙すぐかいた人もいはった。

妻)で、行くゆうたら、お客さんがみな、ガソリン代とかカンパしてくれたんやて。それから化粧品のサンプルとかそういうのも持ってきてくれてね。それがちょうどバレンタインデーだったから、男の人にチョコレートわたすゆうてチョコレートまで持ってきてくれて。ようしてくれたね。今回ね、ほんまにボランティアの人たちの気持ちわかりましたね。ほんまに、よくして頂いたわ。

夫)そんで、ガソリン代やらの残ったお金・・・なんぼや、2万円か、見舞金として高松町においてってくれて。そのお金で後、たこやき、やったり、何やかんやと使こたわ。

夫)自立して、家建てた人は、残ったお金で時計をこうたわ。で、高松町の会員の人たちに、いっこいっこ配ってね。えっとー30個くらい買うたんちゃうかな。

妻)高校の同窓会でアンケートしてましたらね、被災にあった人は一人しかいなかったんです。そんで「同級生にこんなんあった人いたとは知らんかった」いうてね、「いやー、後で何か送るから」いうて、ハマグリ送ってきてくれましてね。皆で分けましたけどね。自分がしたんでしょうけどね、仮設の人に皆に分けてくれてね。

夫)神戸の方へ自衛隊で行ってる人なんかやったら、事実困ったんを見てるからね。そやから余計ちゃうかな思うわ。ありがたい思うたわ。ずーと後やけどね、送ってきてくれたん。そやけどやっぱりうれしかった。

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H・Hさん(57) (奥さんも同席)
・ 家族数・特性 :
   2人(米穀商、避難所リーダー、仮設住宅)
・ 住居形態(被害の程度):木造平屋(借地持ち家)・築30年(全壊)
・ 住居以外の被災状況:
   店舗の被害は一部損壊

(避難所の様子)

妻)で,夜になったら,そこに行って寝さして頂きますけれども,もうみなさんたくさん来てらっしゃいますよね.その時はほんとにねえ,もう真剣にみな助け合って,みんな気持ちがひとつやったね.ひとつのもの,ふたつに分けて.ただし,食料だけはたくさんありました.有り難いことにね,皆さんが差し入れとかして下さって,食べもんだけは不自由ということはなかったわね.

夫)それと,よその避難所は暖房がガスだったらしいんです.でも,うちは有り難いことに電気だったんです.そのために,あくる日ぐらいから電気はきたもんですから,事業会館は,そのあくる日からもうすぐ暖房していただいたんです.ですから,寒さはしのげましたです.それはよかったですねえ.

妻)地震当日,電気こなかった時ねえ,寒かって.最初もうねえ,毛布ひとつぐらい持っていっても,寝られないくらい寒かったですよねえ.

妻)事業会館は,競輪の分配金でできた施設ですのでねえ.何かにつけてやっぱし,こちら,高松町はいろんな面でお世話になってますね.その代わり,競輪したらやっぱしある程度ね,迷惑かかるし,ま,そこはお互いさまと私は思っとるんですけども.でも,もうあの時は,あそこあって助かりました.

(近隣の助け合いと町内会の役員)

夫)もうひとつ,ほんとにお世話になったいうのは,このだいぶ向こうのところに農業なさっている方がおられてですね.その方が,水を,農業用水あけて頂いたでしょう.そのためにここらの人どれだけ助かったかと思います.僕はあの人に対しては,お礼せんといけないなあと,絶えず思ってます.町内会からもね,頭下げてお礼せないかんと思いますね.あの人はねえ,晩の10時までか,はじめは2口か3口やった蛇口を,横へ管伸ばして蛇口増やして下すって,たくさんやっていただきましたですわ.あれで助かりました.まだ,どなたかわからないんですけどね,あの人には助けて頂きました.

妻)あれは助かったわねえ.しかもねえ,お洗濯さしていただいてもあの水は地下水ですからあったかいんですよ.もうほんとに感謝いたしましたねえ.ほんとにね,命の恩人だなと思ってます.

妻)結局ね,電話,電気が先やからね.それは助かりましたけど,なんというても水ですね.お水がないっていうのは,トイレが使えませんね.もちろんお風呂もだめですしね.でも,飲み水だけはそうして頂きましたのでね.お洗濯もそこでね,たらいもって行かさしてもらってね,そこでさせていただいたんですよね.

夫)避難所のトイレの水がなあ,みんなのトイレの水が,あの用水で助かった.ほんとにもうあの人には助けて頂きました.ですから,有り難いことに寒さと水には不自由しなかったです.

夫)あとここの町会の役員の人はようやったもんな.あの人ら自分の商売ほって,もう感心するくらいやっとったもんな.

妻)そう.あの時よくやってくれはったねえ.だから本当に皆さん助かって,みんなを拾っていってくれはったのよねえ.

夫)やはり公平な立場からあの人はやってはったから,よかったわ.

妻)だから,なんかね,そういう音頭とってくださる人がね,誰かがみんなを “カッ”と引っ張っていってくださると一番いいんですけどね.ただ,まあね,難しいんですよね.出ればね,でしゃばりだのなんだのってねえ,よい時にはよくてもすぐにそういうこと言う方がいらっしゃるからね.皆ね,もう言われたくないからしないっていうところもあるでしょう.人間はなんかねえ,出ると打たれるゆうんか,有り難いと思う反面でそういうことおっしゃる方がいるから,だめなんですよね.だから一人一人がやっぱり気いつけなあかんねんね.

夫)けど高松町って人格者がいるわなあ,Yさんとか,偉い人たくさんいるもんなあ.

妻)そうそう.いいひとが多いかったものね.あと,この震災で,結構仲良くなったゆう方もいるね.それまで,おんなじ高松町でもね,全然物もゆうたこと無い人が,親しくなってね.こういうことがないことには,お付き合い一生しなかっただろうなっていうのとね,あとやっぱし好意になったりとかね,震災は人と人とを引き付けてくれたっていうのはありますね.

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T・Yさん(72) (奥さん同席)
・家族数・特性 :
   2人(一級建築士:夫婦2人)
・住居形態(被害の程度):
   木造2階・築60年(半壊)
・ 住居以外の被災状況:蔵倒壊

体育館では、皆さん食べるものも何もなくて、子供でも、お腹すいたも言いませんでしたね。うちは、こっちの2階建てがなんとか助かってましたので、納戸から食べれるようなものを持って、体育館に行ったりしたんですけどね。まあ、近くに親戚がいらっしゃる方は、おむすびを作って持ってきて下さって、それを近所の方で分けあってね。でも、子供もお腹空いてないいう感じで、もちろんそんな贅沢も言いませんでしたね。

 その日、真夜中でしたけど、西宮のお寺と関係ある高野山のお寺のお住さんが、たくさんおにぎり持って訪ねて来て下さって、とても全員には行き渡らないですけど、それを皆さんに配りましてね。そんなときでも、“私は一つもう先に食べましたから、他の人に回して下さい”いう風な感じで分け合ったり、あるいは、和歌山からおみかんもって来てくれたら、それをバーッと配ったりとかしたんですけどね。まあ、配れた方はいいですけど、あたってない方もきっといらっしゃいますしね。まあ、いろいろ聞きますと、いろんなところがあったらしいですけど、ほんとにみんなが助け合って、僅かなものでも分け合って、“お腹は空いてるけど、まだもっとお腹空いてる人にまわそう”みたいな雰囲気が体育館の中ありましたね。最初はそんな感じだったんです。まあ、3日目、4日目位になると、物資は余るくらいたくさん来ましたけど。

 体育館は皆が横になるスペースがないくらいいっぱいでしたけれども、そういう中で皆さんが、整然として助け合っていったいう感じでしたね。

 うちは身体が不自由な父をつれてまして、しかも、3年間も患ってますので、一晩中独り言みたいなんしゃべったりとか、いろいろするんですけど、それでも皆さん、お住さんがお経あげて下さってるいう風にとって下さって、ほんと助かったんです。

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J・Yさん(46)
・ 家族数・特性 :
   6人(親夫婦、本人夫婦、子供2人)
・ 住居形態(被害の程度):
   寺院・築100年(全壊)
・住居以外の被災状況 :
   母親死亡、父親生き埋め、子供自閉症
   本尊はじめ寺の宝物に被害甚大

厚生事業会館の事務局長をSさんいう人がしていて、あの人もよう機転のきく方でね、まず、「どういう風なことをしましょうかいうことを相談する」いうて役員全員お昼2時に集められたんです。私は患者さんの方があったから、「ちょっと行けない」言うて。ほんで夜7時にもう1回集まってくれいうことで、夜の時は行ったんです。で、集まって、“みんなでこれからどういう風にしようか。調査もせなあかんし、怪我人はないかいうこともせなあかんし”いろんな話し合いをしたんです。あの、“ご遺体こんなんで、何人亡くなったか”いう話もして、その時、悪いけど、Iさんとこのお嬢さんは、いらっしゃらないと思ってたから分からなかった。で、自治会で、“食事やなんか出来ん人の為にどういうふうにしようか”とか、“事業会館借りて、ここで家潰れて寝られない人はお布団持ってきて、ここで泊まれるようにしてもらおう”とかいう相談をしました。それをみんなで口コミで流して、事業会館の上の講堂にみんなお布団持ってきて寝てもらうようにしたんです。これは、Sさんが役員の人たち集めて、そういう提案したんですからね。あの方、もうほんとによくなさいましたよ。ほんで、それから半年間は大変でしたからね。

 ほんで、事業会館は公設の避難所やないから、3日経っても、1週間経っても、よそから何も来ないんですよ。ほかの避難所はみな配って回ってとんのにね。それでも、役所にどんどん交渉して認めてもらって、ほんで、物が来るようになったんですけどね。それまでは何も来なくて、近所の人がみな、作っては持って行きね。そんなようけ出来ないでしょ、こちらではね。なら、おにぎりやらなんか来るようになってからは楽になりましたけどね。

 ほんで、避難してる人は何人いうて、毎日名簿こしらえてね。そこの、村長さん作ろういうことになって、お米屋さんのHさんに頼もういうてね。あの人はお米を配達するから、顔を知ってるし、面倒見がいいからね。

それまでは変な話ね、トイレも使ったら使いっぱなしなんですよ。私らが当番で行って流したりしよったんですよ。それも高松だけやなくて、田代の人も来てたしね、「よその地域の人たちまで来てるのに、そんなん高松のもんだけがするのおかしいやないか」いう文句が出てきて。一週間目は誰も文句言わんと、「大変や」言いながら一所懸命してたん。けど段々日にちが長くなるとね、「自分とこ大変なのに何でこんなんせんなんの」いう文句が役員会で出てきてね。「やっぱり、自分とこの町内のことは、自分とこの町内でちゃんと話し合いしてもらいましょうよ」いうことになって、向こうの町内へゆうて当番を決めてもらうようにしたんです。ほんで、ティッシュもほかさないで、袋置いて使ったらそこへ捨てるとか、おしっこは流さないとか、便したときには尺に2杯流すとか、いう風に決めてて、ちょっと水の消費を助けてもらうようにしたんです。

 ほんで、次の次の日くらいですかね、北口の自治会の方が42、3人だったかな、駅の構内にいらっしゃるということを知ったんですよ。ほんですぐね、事業会館へお連れしたんです。下の部屋をお借りしてね、北口の人達入ってもらったんです。ようあんな冷たいとこで寝てはったなあ思って、ほんまに気の毒でねえ。まだ板間ならいいけど、たたきの上に段ボールひいてねえ。よう肺炎ならんかったわと思って。ほんま、事業会館にだいぶ助けられましたね。

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O・Hさん(64)
・家族数・特性 :
   3人(看護婦:夫婦と娘、長女は結婚している)
・ 住居形態(被害の程度):
   木造2階・築4年(ほぼ無被害)
・ 住居以外の被災状況:軽微